概要

関西学院大学大学院 理工学研究科 情報科学専攻の特任助教Adnan Sljoka博士による論文が,科学誌「Science」に掲載されました(2017120日).

この論文は,フルオロ酢酸デハロゲナーゼとよばれるホモ二量体酵素の機能制御における重要な側面を明らかにしたものです.フルオロ酢酸は有毒植物から得られ,強い毒性を持っていることが知られていますが,この酵素の触媒反応により,フルオロ酢酸の強い化学的結合を破壊し,スキンケアにも用いられるグリコレートを生成することが知られています.このような触媒の機能制御に大きな役割を果たしていると考えられている,たんぱく質動力学とアロステリーと呼ばれるたんぱく質内の遠隔情報伝達の役割を解明したものです.

この論文のなかで,Sljoka博士は,剛性理論とよばれる数学理論に基づいた,たんぱく質の構造解析アルゴリズムを開発し,機能解明に大いに貢献しました.これは,離散数学とアルゴリズムの研究が,生化学分野における重要な謎の解明に迫る新しい知見を得ることに本質的に寄与したことを示しています.

 

ポイント 

  酵素の触媒反応のメカニズムは,いまだ解明されておらず,科学の謎の一つである.

  酵素触媒反応に関する有名な仮説に,酵素の時間変化に伴う動きが酵素反応に重要な役割を果たしているのではないかというものがある.しかし,これまでこの仮説を立証することは困難であった.

  たんぱく質における動的変化にアロステリー効果が重要な役割を果たしている.アロステリー効果とは,たんぱく質のある部分に薬などの小物質が結合すると,それが同じたんぱく質内の遠くの場所の構造変化や動的変化を引き起こすという現象である.離れた場所への信号伝達ともいうべき,この現象の仕組みはよくわかっていなかった.

  Sljoka博士は,アロステリー現象を剛性理論を用いてモデル化し,アロステリー現象が生じるメカニズムを説明することに成功した.また,これにより,アロステリー信号伝達が生じる部位のペアを高速に同定するアルゴリズムを開発して今回の研究に適用した.

  Sljoka博士のアルゴリズムに予測に基づいて,酵素における互いに離れた位置にある二つの部分の間のアロステリー信号伝達に関する仮説を立証し,酵素の働きに関する謎の解明に迫る新しい知見を得ることに成功した.

 

1.研究の背景と経緯

細胞内のすべての生物学的プロセスは,化学反応を特定の速度で進めるために酵素を必要としている(酵素の多くは,たんぱく質である).酵素が無ければ,化学反応速度は遅くなり,生命を維持できない.このような生命にとって,極めて重要であり,かつ不思議な仕組みは,酵素と特定物質の結合体から,特定物質を他の生成物に少ないエネルギーで化学変化させることによって,実現されている.酵素の触媒反応のメカニズムは,いまだ解明されておらず,科学の中心的な謎である.

酵素触媒反応の謎を解くために,半世紀以上,多くの実験が行われてきた.たとえば,核磁気共鳴装置を用いて,酵素の三次元構造は一定ではなく,10-12秒から数秒の時間の間に多くの状態を取り得る.つまり,時間とともにその三次元構造は絶え間なく変化していると言える.

酵素触媒反応に関する有名な仮説に,酵素の時間変化に伴う動きが酵素反応に重要な役割を果たしているのではないかというものがある.しかしながら,非常に多くの努力にもかかわらず,実験によってこの仮説を立証することは困難であった.また,一方で,たんぱく質における動的変化を引き起こすのに,アロステリー効果が重要な役割を果たしている.アロステリー効果とは,たんぱく質のある部分に薬などの小物質が結合すると,それが同じたんぱく質内の遠くの場所の構造変化や動的変化を引き起こすという現象である.アロステリーは,多くの生物学的機能に本質的に関与していると言われているが,離れた場所への信号伝達ともいうべき,この現象の仕組みはよくわかっていない.

Sljoka博士は,理工学部情報科学科の加藤直樹教授が代表を務める科学技術振興機構CRESTプロジェクト(プロジェクトタイトル「ビッグデータ時代に向けた革新的アルゴリズム基盤」)の研究員として,剛性理論のたんぱく質機能解明への応用を中心に研究に取り組んできた.とりわけ,上述のアロステリー現象を剛性理論を用いてモデル化し,アロステリー現象が生じるメカニズムについて研究を進めてきた.とくに,たんぱく質の動的変化や機能に関する難しい問題を取り扱う他の計算手法に加えて,未知のアロステリー伝達を解析,予測する剛性伝達アロステリー法(RTA法)を開発した(たとえば,Sljoka氏らによる2015年にPlos Oneに掲載された論文では,アルツハイマー病に関与しているたんぱく質の性質の理解に関する数理的アルゴリズムの役割について述べている.)

 

2.研究成果

トロント大学の研究グループ,Adnan Sljoka及び他の研究者は,フルオロ酢酸デハロゲナーゼという酵素において,その動的変化とアロステリーが重要な役割を果たしていることを明らかにした.

フルオロ酢酸デハロゲナーゼは同一のサブユニットの組からなるホモ二量体を形成する酵素である.トロント大学の生化学チームは, X線結晶解析によって酵素の高解像度の画像を得るとともに,核磁気共鳴装置によって酵素の触媒反応の各段階における酵素の変化を観測した.生化学実験によるデータから,二量体の二つのサブユニット間のアロステリーがこの酵素触媒反応における決定的に重要な部分であることを明らかにした.また,一つのサブユニットは基質と結合し,もう一つのサブユニットは基質と結合していないままであることが,もう一つの重要な新しい知見である.

たんぱく質の動的変化は分子動力学シミュレーションを用いて研究されることが多いが,多くの計算時間を要する.この限界を打ち破るために,RTA法を用いた剛性理論による解析手法を用いて,酵素の二つのサブユニット間にアロステリー信号を伝達する物理的経路の存在を示した.

図:フルオロ酢酸デハロゲナーゼ(左の部分にあるオレンジ色の丸は酵素と結合したフルオロ酢酸を表している)とアロステリー信号伝達

 

3.今後の期待

この論文は,直ちに,生化学分野の研究者たちに注目され,「この論文により,酵素の触媒反応の仕組みについての理解を深めるために極めて重要な進展が得られた」と高く評価されている.この論文の成果は,近い将来,多様な酵素の触媒反応の謎の解明につながることが大いに期待される.さらに,この論文において,剛性理論に基づく数理的アルゴリズムが,たんぱく質の機能に関する生化学的謎の理解を助ける強力な道具であることが示されたが,さらに原子レベルで生命の謎を理解するための必須な道具であることも明らかにした.

 

【論文タイトル】

The role of dimer asymmetry and protomer dynamics in enzyme catalysis

http://science.sciencemag.org/content/355/6322/eaag2355

【著者名】

Tae Hun Kim, Pedram Mehrabi, Zhong Ren, Adnan Sljoka, Christopher Ing, Alexandr Bezginov, Libin Ye, Régis Pomès, R. Scott Prosser, Emil F. Pai

 

【用語解説】

剛性理論:

剛性理論とは,2 次元平面または3 次元空間内の伸び縮みのしない棒材と棒材をつなぐピンジョイント(つながっている棒材がジョイントの周りで自由に回転可能なジョイント)からなる2 次元または3 次元フレームワークが剛堅であるかどうかを調べる(つまり剛性を調べる)学問である.剛性理論の成果は,構造物の基礎的知見を与えるのに留まらず,機械設計やタンパク質の挙動解析・知的CADの開発など,様々な分野において応用されている. 特に,たんぱく質の剛性を調べるにあたって,たんぱく質を構成する原子間の化学的結合(共有結合,水素結合など)を3次元のフレームワークとして数学的にモデル化し,その数学的性質を調べることによって,たんぱく質の剛な部分を高速に調べることができる.CRESTプロジェクトの研究代表者の加藤直樹教授は,2011年に分子フレームワークに関する重要な未解決問題を肯定的に解決することに成功し,Sljoka氏が開発したアルゴリズムが正しく動作することを数学的に保証している.